相手は長々と話し続けていたが、弥生は一言一言を丁寧に聞いていた。なぜだか胸がじんわりと温かくなる。まさか、継母と自分の関係がこれほど良好だったとは思わなかった。でも、弘次からの話では、「この継母との関係はうまくいっていなかった」とのことだった。だが、実際はまったくそんな様子ではなかった。そう思った弥生は、わざと冷たい口調で言ってみた。「......私のことは放っておいてください」案の定、その言葉を聞いた相手は一瞬言葉を失い、気まずそうに笑って答えた。「弥生?今日はちょっと機嫌が悪いのかしら?それとも、仕事で何かあった?」......やはり、関係は良好だったらしい。ちょうどそのとき、弥生は外に人影がよぎったのを見た。表情を変えず、そのまま電話口で冷たく言った。「......ええ、ちょっと疲れてるので、今日はもう寝ます」そう言い残し、相手の返答を待たずに電話を切った。スマホを閉じたあと、弥生は視線を遠くに向けた。やっぱり、弘次には隠し事がある。今はまだ、波風を立てるべきじゃない。そう判断した弥生は、スマホをバッグにしまい、立ち上がって部屋を出た。しかし、何も食べていないせいで身体に力が入らず、歩き出すとすぐによろめき、倒れそうになった。それでも何とか廊下に出ると、俊太がさっと近づいてきた。「霧島さん、どちらへ行かれるんですか?」弥生は彼をじっと見つめた。その視線に気づいた俊太は、数秒沈黙した後、自ら名乗った。「あっ、小倉俊太と申します。黒田さんの指示で、これからは霧島さんに随行し、身の安全をお守りいたします。よろしくお願いします」「......守ってくれる?」弥生は小さく疑問の声を漏らした。「霧島さんは事故で記憶を失っていますから、外出時のリスクが高まります。常に同行して安全を確保する必要があります」彼の言葉は一見「護衛」のように聞こえる。だが弥生は、内心すぐに察した。これは、見張られているのだ。さっきもそうだった。自分が電話をかけていたとき、彼はすぐ近くまで来ていながら、声をかけるでもなく外で立ち聞きしていた。すべてが不自然すぎる。彼女は俊太に冷ややかな視線を送っただけで、言葉は返さず、部屋へ戻って上着を羽織り、階段を下りた。俊太は、
弘次は「ある」か「ない」かを明言しなかった。言い回しもうまく、すべては弥生自身の受け取り方次第だった。案の定、記憶を失った弥生は彼の言葉を聞いて眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。彼女は父の連絡先を新しいスマホに保存したあと、ふと思い出したように尋ねた。「お父さん以外に......私たちの共通の知り合いとか、親しい友達とかはいる?」弘次は唇を引き結び、淡々とした目で彼女を見た。「いるよ」「誰?」「この辺りにはいない。君、忘れたんだろ?」そう言ってから、弘次は「ああ、そうだった」とでも言うように表情を変えた。「君が記憶を失ってること、うっかり忘れてたよ」妙に冷たいユーモアだった。彼女は仕方なく唇を引きつらせ、愛想笑いを浮かべてみせた。「じゃあ、その友達の連絡先、教えてもらってもいい?」「うん。スマホのデータが復元できたら、教えるよ」弘次がそう言うと、弥生は素直にうなずいた。「わかった」弘次が部屋を出たあと、弥生は新しいスマホを手に取り、連絡先アプリを開いた。登録されていたのは先ほど自分で入力した父の番号と、弘次のものだけだ。......たとえ性格が悪くても、普通は一人くらい友達がいるはずだ。家族の番号さえ、彼に言ってもらわなければ分からなかった。この状況、どう考えてもおかしい。おかしすぎる。どちらかに問題がある。自分自身か、あるいは弘次か。弥生は深く息を吸い、さっき登録したばかりの父の番号をタップして電話をかけた。弘次があえて電話をさせないようにしていたのか、単なる深読みなのか、それを確かめるためにも、彼女はこの電話をかけなければならなかった。コール音が何度か鳴った。長い間応答がなかったため、彼女は一瞬、「もしかして間違った番号を教えられた?」と不安になった。「もしもし?」出たのは、優しい中年の女性の声だった。落ち着いた口調で、どこかあたたかい。声を聞いた瞬間、弥生は直感的に「この人が義母なんだろうな」と思った。相手がそうなら、自分のことを知っているはずだ。しかし、今の自分には記憶がない。それを悟られたくなくて、弥生は少し戸惑いながら口を開いた。「......あの、お母さん?」一瞬の沈黙のあと、電話口の女性はぱっと明るい声になった。
弥生が立ち去った後、弘次の温和な表情は一瞬で消え、冷ややかな目で周囲の使用人たちを睨んだ。「今後、このスープ以外の料理は、二度と作らないでいい」その声は氷のように冷たく、使用人たちは思わず背筋を伸ばし、慌てて何度もうなずいた。「はい......」弘次が部屋を出ると、残された使用人たちは小声で愚痴をこぼし始めた。「......この霧島さんって人、ちょっと気難しすぎない?せっかく私たちが何十種類も用意したのに、まったく箸をつけないなんて......黒田様も『次はもう出すな』なんか言って......じゃあ、何を作ればいいのよ?」「ほんとよね。黒田様が連れてきた女性なのに、なんでこんなに扱いづらいの......」そんなことを言いながら、先行きの見えない不安に皆が頭を抱えていた。一方で、弥生は部屋に戻ると、そのままバルコニーに出て椅子に腰を下ろしていた。彼女の部屋には広いバルコニーがついており、ガラス戸も大きく開かれていた。弥生は外の風景をぼんやりと見つめながら、椅子に深く体を預けた。どれだけ時間が経っても、彼女の心は落ち着かなかった。なにか、とても大事なことを忘れている。それだけは、なぜか強く感じていた。でも、いくら思い出そうとしても、まったく記憶は戻らず、頭だけが痛む。「はあ......」弥生はテーブルにうつ伏せになり、深いため息をついた。誰かに聞いてみたい。でも、誰に聞ける?弘次という男は本当に優しくて、まるで本物の婚約者のように世話を焼いてくれる。......でも、どうしても好きな人に対する感情は湧いてこない。彼女はしばらく真剣に考えた。もし、好きでもない人に猛烈にアプローチされたら、自分は応じるだろうか?答えはノーだ。どんなに優しくされても、どんなに尽くされても、気持ちがなければイエスとは言わない。だからこそ、彼の「婚約者」という言葉も信じられなかった。たぶん、ただの知人か、せいぜい片思いだったんじゃないかな。でも今の弥生には、記憶も居場所もない。頼れる人は弘次しかいなかった。だから仕方なくここにいる。それだけだった。考えを巡らせていたそのとき、背後から微かな足音が近づいてきた。弥生はその音に気づきながらも反応せず、聞こえないふりをした。やがて弘次が彼
弘次の強引さに、弥生は少し不快感を覚えた。弘次を見上げながら、自分との関係性がどこかおかしいと感じた。車を降りると同時に、彼女はすばやく手を引っ込めた。すでに地面に立っていたためか、弘次はそれを見ても何も言わず、追って手を伸ばすこともなかった。「使用人に部屋まで案内させよう。僕は朝食の準備ができたか見てくる」弘次が離れると、弥生はふっと肩の力が抜けたように感じた。そして黙って使用人のあとに続いた。部屋へ案内されたあと、使用人は丁寧に案内してから退室した。ひとりきりになった部屋の中、弥生はゆっくりと部屋を見回した。しかし、どこを見てもまったく心当たりのない空間だった。「......こんなところに、私が本当に住んでたの?」たとえ記憶がなくても、何かしら心に引っかかる感覚があってもおかしくない。でも、それがまったくない。それがむしろ、怖かった。以前のように、記憶を探ろうとすると頭が痛くなりそうで、弥生は考えるのをやめた。靴を脱ぎ、そのままベッドへ横たわった。目を閉じると、自然に眠気が襲ってきた。どうしてこんなにも眠いんだろう。たぶん、頭を打った後遺症かなと弥生はそう自分に言い聞かせた。そのまま深く眠り込んでしまい、次に目覚めたのは、弘次が部屋に入ってきたときだった。「弥生」彼が何度か呼びかけ、肩に触れたあたりでようやく弥生は目を覚ました。ぼんやりとした目で彼を見つめながら尋ねた。「......何?」「ごはんの時間だよ。覚えてる?帰りに約束したろ?家の料理人が君のために美味しい料理を作るって」その言葉に、弥生はようやく思い出して、小さく頷いた。「そうだった、ごはん......」ゆっくりと体を起こそうとしたその瞬間、弥生はふらりと前に倒れそうになった。弘次はすぐに手を伸ばして彼女を支えた。「大丈夫か?」「......たぶん、低血糖......かも」ふわふわとした感覚の中で、弥生はそうつぶやいた。弘次は一瞬、動きを止めた。彼女がこの数日まともに食事をしていないことは知っている。それならば、低血糖の可能性は十分にある。弘次はためらいなく、彼女を横抱きにし、そのまま食堂へと向かった。すでにダイニングでは数人が食卓につき、彼女の登場を待っていた。
「何が食べたい?」そう聞かれた弥生は、弘次の気遣いに対して、無理に笑みを浮かべながら答えた。「......なんでもいい」実際のところ、弥生には食欲がまったくなかった。でも、自分でもなぜなのか理由がわからない。これは拒食なのだろうか?それとも、ここ数日で記憶を失ったせいで、現実味がなくて何も実感が湧かないから?とにかく、今の弥生は、たとえ弘次に「家に帰る」と言われても、心のどこかが空っぽで、何かを見失ったような浮遊感を抱えていた。そして、何か大切な用事がある気がしてならないのに、その「何か」がどうしても思い出せなかった。いったい、自分は何をしようとしていたのだろう?記憶をなくした今の弥生には、その答えを知るすべもなかった。弘次の宅に到着すると、執事や使用人たちがずらりと並んで出迎えてきた。彼らも緊張した面持ちで姿勢を正していた。なぜなら、すでに執事から一通りの説明を受けていたからだった。弥生は事故で頭を打ち、記憶を失っている。今後は彼女を弘次の婚約者として彼女を扱うこと。どんなに不自然な状況でも、決して真実を口にしてはならない。つまり、それは失った記憶を逆手に取り、嘘を信じさせる協力をしろ、ということだった。もちろん、「嘘をつくことはよくない」と思う者もいただろう。だが、彼らは雇われの身だ。正義よりも指示に従うことが優先される。雇い主の命令は絶対なのだ。一部の者たちは、心の中で密かに興味を抱いていた。弘次がそんな手段に出るほど執着する女とは、どんな人物なのだろう?そしてついに、その伝説の婚約者とやらが姿を現した。玄関前に車が到着し、最初に降りてきたのは運転手だった。運転手がドアを開けると、弘次が降りてきた。だが、彼はすぐには建物に入らず、反対側にまわってもうひとつのドアを開けた。そして丁寧に手を伸ばし、車内の女性を庇うように、ドアの上部に手を添えていた。その優しい仕草に、皆の視線が自然と女性に集まった。彼女の姿は、実に質素だった。たぶん病院から出たばかりなのだろう。温かそうなベージュのタートルネックに、裏起毛のパンツ、短めの毛皮付きブーツ。その上に淡い水色のロングダウンコートを羽織っている。とても平凡なコーディネート。特に目を引く装飾品もなく、ど
「うん、多分そうかも」「じゃあ、あとで甘いものを持ってこさせようか?」甘いものの味を想像すると、弥生は不思議と嫌な気持ちにはならなかったので、うなずいて了承した。弘次はすぐに部屋を出て、指示を出しに行った。そして俊太にも、自分の抱えている疑念を伝え、弥生にどんな検査を受けさせるべきか調べさせた。それを聞いた俊太も眉をひそめた。「体調が悪くて、脂っこいものが受けつけないだけかもしれませんね。いっそ、この数日は食事をすべてあっさりしたものにしてみては?」「そうだな。しばらくは消化にいいものだけにして、まずは体を整えよう」しかし、届いた甘いものを口にしても、弥生の食欲はあまり戻らなかった。吐き気はしなかったものの、数口食べたところで箸を置いた。弘次はその様子が気がかりで、弥生が茶碗を置いた後、自ら茶碗を手に取り、お粥をすくって冷ましながら、彼女の口元に運んだ。「もう少しだけ、食べて?」弥生は眉をひそめ、その差し出された粥をじっと見つめた後、顔をそむけた。「......もう、食べたくない」「でもさっきの量じゃ、夜にはお腹空くだろう?もうひと口だけ......」弥生は目を閉じて、完全に無視する態度をとった。「......弥生?」彼女はそのままぷいっと背中を向けて横になってしまった。弘次はなんとか説得しようとしたが、何を言っても弥生はもう口を開こうとはしなかった。結局、弘次はため息をつき、茶碗を置くと、友作に電話をかけ、弥生がここ数日何を食べていたかを尋ねた。「この二日間、ほとんど食事を摂っていません。飛行機の中で少しだけ、出発前の夜はビールを半分ほど......」と友作が答えた。それを聞いた弘次は思わず額を押さえた。「......冷たいビールなんて飲んだら、そりゃ胃を壊すに決まってるだろ」きっと、夜に冷たいビールを飲んだことで胃が荒れ、今は食べる気が起きないのだろう。胃の検査もした方がいいかもしれない。そう思いながら弥生の方を振り返ると、もう彼女はベッドに寄りかかって眠っていた。弘次は俊太に指示を出し、万が一彼女が夜中にお腹が空いたときのために、食べ物を準備させた。だが、どれだけ用意しても意味はなかった。弥生は一晩ぐっすり眠り、夜中に目を覚ますことは一度もなかった。そし